昭和十九年十一月二十二日、飛行第三十一戦隊に、飛行第二師団司令部より、ネグ
ロス島フアブリカ基地に前進して、レイテ総攻撃に参加する命令が下った。
昭和十九年八月以来、三度目の前進であり、アンヘレス北での全滅状況に遭ったこと
を加えると、四度目の再起である。
レイテ沖海戦は、失敗に終わったが、陸軍側は、この間、泉兵団(第二兵師団)玉兵団
(第一師団)の輸送に、成功して、愈々、決戦態勢に入ることになり、玉兵団は、オルモック
より北上して、タクロバンの米軍司令部の本隊の西側より、タクロバン地区え、泉兵団は、
オルモック市より東南の山岳地区を越えて、ブラウエン、タルラック市方向に進出し、南北
両方より、米軍を圧迫、包囲して、レイテ海岸に圧縮してゆく計画であった。
この総攻撃には、日本陸軍の最精鋭を尽くしての攻撃が行はれる事になっていた。
昭和十九年十一月二十三日の午後、飛行第三十一戦隊は、愈フアブリカ基地に向って、
クラ−ク、フィ−ルドのマバラカット東飛行場を出発する事になり、飛行第二師団司令部から
参謀が見送りに来た。
マバラカット基地の指揮所に、西戦隊長と、第十三飛行団団長の江山中佐が、この参
謀と来て、出発人員全員が、出発の命令と、航路、その他、米軍の攻撃に際しての注意を
受け、特別攻撃、一宇隊の栗原中尉以下は、飛行第三十一戦隊の編隊と、第十三飛行団
長の編隊群に追尾して出発する事になり、師団司令部の参謀から、師団長の激励の言葉
を受けて、出発準備にかかった。
マバラカット東飛行場の北側の全ての薮蔭から、私の廻せの号令と共に、轟然と、発
動機が始動し始め、一宇隊は、マバラカット基地の西南隅の薮影から、始動して、出発線
につく準備を始めた。
第十三飛行団長の江山中佐と、西戦隊長は、自動車で、夫々の愛機に向い、飛行機
の状況を自分で確かめて、夫々の薮影から、出発線に向って、移動を始めた。
全数、二十機、特別攻撃隊の十機を併せると、三十機、優に、完全な、戦斗機戦隊の
編隊数になり、それが整然と編隊を組んで離陸してゆき、空中でガッチリ、戦斗隊形をとっ
て、クラ−ク、フィ−ルドの上空を飛ぶ様は、私自身、歓喜にふるえた。
戦隊の編隊に次いで、一?隊が、追尾して、南方に向ったとき、師団司令部の参謀が、
私の傍に来て、
「おい杉山、貴様、良くやった。
何処に、飛行機を匿していたのか?
あんなに、飛行機がとは、思いもかけなかった。
有難う、有難う。」
と、いって、眼に涙を浮かべながら、私の手を握って、打ち振った。
飛行第三十一戦隊のマバラカット基地からネグロス島フアブリカ基地えの前進隊形と
人員名は次の通りである。
第二編隊
一番機 飛行第三十一戦隊長西進少佐
二番機 中村軍曹
三番機 浜砂軍曹
四番機 門田軍曹
五番機 高橋軍曹
六番機 宮本軍曹
第二編隊
一番機 寺田中尉
二番機 竹中軍曹
三番機 剣持曹長
四番機 阿部軍曹
五番機 福山軍曹
六番機 長谷川軍曹
第三編隊
一番機 清水少尉
二番機 福本軍曹
三番機 門馬少尉の予定が柏木少尉?
四番機 成沢軍曹
五番機 花井軍曹
六番機 中谷軍曹
特別編隊
長機 第十三飛行団長江山六夫中佐
二番機 原軍曹
残置飛行隊員に、岩原軍曹、古川軍曹があり、門馬少尉は前進の予定であったが、
デング熱にかかり残置し、デング熱が治った柏木少尉が入っていった記録になっている。
特別操縦見習士官と、田中伍長は、飛行時間が少ないので残置に決定していた。
飛行機も、隼三型が二機予備機としてあり、整備中のものが三機あり、一機は、オイ
ルハムマ−を起こして、発動機の交換を必要としていた。
私の心の中には、喜びと共に、一つの悲しみがあった。
恐らく、この出発は、私の最後の仕事となるであらう。
この編隊の中で、何機、いや誰が、このレイテ総攻撃で、生き残ることが出来るであら
うか?
と、いう感慨があった。
恐らくレイテ島の戦局は、白熱状況になっていて、フアブリカ基地えの米軍の攻撃は、
激烈なものになるであらう。
この斗いの中に、私も最後の生命をかけてゆかねばならぬという決意に燃えた。
飛行第三十一戦隊は、マバラカットに、門馬少尉以下、特別操縦士官と、少年飛行兵
の新しく配属されて来た人々の飛行隊と、飛行機五機を残し、整備隊は、市川中尉以下
を残置する事になって、特に、メナドよりクラ−ク、フィ−ルドに転進して来た、ベテランの
整備下士官の人々が、フアブリカに前進する事になっていた。
私は、戦隊の編隊を送った足で、直ちに、飛行第二師団司令部に行った。
私がクラ−ク、フィ−ルドの西側にある、山合いの河原のある、ニッパハウスの作戦
司令部に着いたら、参謀長の大賀大佐、作戦主任の野々垣参謀以下が出て来て、口々に、
「久し振りに、戦斗機戦隊の編隊の雄姿を見た。」と、大変喜んで呉れて、私達が、直ち
に、フアブリカ基地え前進する飛行機を手配して呉れた。
私の記憶では、戦隊の編隊に次いで、私は直ちに、師団司令部からの飛行機で、フア
ブリカに前進したように考えるが、この出発状況に記憶が無い。
私達は、戦隊に追尾するように、フアブリカに前進したように考える。
フアブリカに着いて見ると、戦隊の編隊は、全機無事到着していたが、一宇隊は、呂
宋島を離れ、ミンドロ島の附近に、不連続線があり、雲の峰々が連って、五千米から、一
万米に近いものがあった。
飛行第三十一戦隊は、翼下に増加タンクを積んでいるので、燃料的に問題はないの
であるが、特別攻撃隊の一宇隊は、翼下に、百s爆弾二個を吊っていて、増加タンク無し
である。
このため、飛行燃料の制約を受けた。
飛行第三十一戦隊は、この雲の峰を暫く旋回して、峰々の間隙を見つけて、通過して
行ったが、一宇隊は、その余裕が無かったのか、または、そのような経験がなかったのか、
雲の峰の中に、突入んで行ってしまって、飛行第三十一戦隊と、一宇隊は離れ、栗原中尉
は、行方不明、その他は、バラバラに、マナプラや、タリサリ、その他の基地に着陸したとい
うことであった。
私も、久し振りに、フアブリカの飛行第三十一戦隊に帰って来て、その夜であったと思
うが、第十三飛行団の江山中佐団長から、私が着いたら、至急会いたいという伝言があっ
たので、私は飛行団司令部に赴いた。
飛行団司令部に着いて見ると、西進戦隊長も、先に来ていた。
私は、何事ならんと思って、江山中佐に向って、到着した報告をしたら、江山中佐は、
御苦労と云って、先ず呑めということになった。
第十三飛行団司令部に対する、飛行第二師団司令部からの激励の酒であった。
私は、茶碗になみなみと、一杯にお酒を頂き、一口呑んで、下に置いた。
その様子を、ニコニコしながら見ていた、江山中佐は、
「さてと、実はな−、杉山、!
貴様に、相談というより、頼みがあるのだ。
第十三飛行団は、これから、レイテ総攻撃に参加する。
そこで、今、貴様に抜けられては、飛行第三十一戦隊のみならず、飛行第十三飛行
団の志気に関する問題である。
それで、貴様に、このレイテ作戦、総攻撃の間は、飛行第十三飛行団に居て欲しいの
だが、どうであらうか?」
と、いうことであった。
私は即座に、
「飛行団長殿、
それは、私の方から、お願いしたいと思っていることです。
私は、この比島戦、レイテ総攻撃作戦は、私の死に場所と考えていますし、軍人として、
何処までやれるか?最後の戦いと思っています。
私の軍人としての生涯において、徹底的に戦いたいと念願しています。
その意味で、私自身は、飛行第三十一戦隊で、少尉から、今日まで、約四年間、生死を
共にして来たものとして、最後まで、行動を共にしたいと念願しています。
そのことにおいて、色々問題がありませうが、是非、ここで、戦はして頂きたい。
私の方から、お願いします。」
と、答えたとき、江山中佐と西少佐は、二人で、うなづきあって、
「よし、判った。
そのようにしてゆかう。
貴様の気持と決意は判った。
有難う。」
と、いって、私の手を握った。
飛行第三十一戦隊には、昭和十九年の八月末、陸士55期生の北村大尉が、既に着任
していて、十一月まで、約三ヶ月を経ていた。
兵士達や、下士官の中では、私が転任するであらうことを、秘かに噂さしていたし、度々、
下士官や、兵達から、
「隊長、隊長は、近く、何処かえ、転勤されるのでないですか?」
と、問うて来ていた。
しかし、私は、「飛行第三十一戦隊は、俺の死に場所と考えているので、絶対に、他え
行くことは無い。」と、否定していた。
私は、転勤そのものも、飛行第三十一戦隊から離れる気は、全く持っていなかった。
事実、私は満州を出るとき、既に日本からの連絡で予想した事であったが、私は昭和
十九年十二月二十四日付で、立川整備師団という、飛行機の整備する学校に、転勤する
発令が出ていたことで、戦場からの転勤には、約一ヶ月前に内令が下っていた事になる。
第十三飛行団長江山六夫中佐が、私に強く、残留して、継続勤務を求めた原因は、こ
のことからであった。
私は、この転勤によって、飛行第三十一戦隊を離れても、充分なことであったし、既に
後任に北村大尉が着任していたことで、或は、私は自ら進んで、後進に道を拓くべきであっ
たかも知れない。
北村大尉は、陸軍航空技術学校での最優秀の成績を納めた人であるということを、後
にしったので、或は、北村大尉に対しては、気の毒な事をした形になったかも知れぬ。
彼は、晴れて、飛行第三十一戦隊の整備隊長としての職務に着きたかったかも知れ
ぬが、私が残留を決めたことで、最後まで、飛行第三十一戦隊の整備隊付将校の地位に
止まった形になってしまった。
しかし、私には、彼の事を考える余地を持っていなかったのも、事実であったと思う。
その昭和十九年十一月二十四日のフアブリカ基地は、また、飛行第二師団は、レイ
テ島に上陸した、玉兵団、泉兵団が、夫々の総攻撃の地域え進出するのに、米軍え総攻
撃をかけているときであり、米軍側も、機動部隊からの海軍機は勿論のこと、陸軍機は、
遠く、ニュギニヤのホ−ランジャ、そして、ハルマヘラ島、そして、レイテ島え、補給されて
来た戦斗機等で、ネグロス島、セレベス島、呂宋島の各基地に必死の防戦、攻撃をかけ
ている最中であった。
レイテ島の天地は、海上は、日米の必死の攻防が連日行はれていた。
フアブリカ基地には、第十三飛行団として、飛行第三十一戦隊の根拠地であったが、
ネグロス島の最東端の場所柄として、隼戦斗機隊の基地としての価値を高め、多くの戦
隊が、ここに来ていた。
飛行第二師団司令部は、これらの各戦隊が、夫々戦力、飛行機の数が少なくなって
いるので、このフアブリカ基地にある各戦隊を統合して、隼隼成戦斗機隊をつくる事になり、
整備将校としては、第54戦隊の蔵前大尉が先任であったので、彼が、この隼隼成戦斗機
隊の整備隊長になり、私が副隊長を勤める事にした。
正式命称は、隼集成戦斗機隊整備隊である。
そして、第十三飛行団長、江山六夫中佐と一緒に戦うことになった。
飛行第三十一戦隊の方は、北村大尉が、整備隊長代理として、指揮をとることになっ
た。
私の心の底には、この比島、レイテの戦いは、日本の運命を決するであらうと、いや、
日本は、絶対に勝てないであらうことを予測していた。
日露戦争でも、日本軍は、極東でこそ、勝利の形になっていたが、露西亜本国との
眞面目の戦争にかったのではなく、戦斗のみの戦いでは、勝負がつかなかったが、政治
的に世界の態勢と、謀略によって、露西亜帝国に革命を起し、露西亜帝国が倒れてしまっ
たことで、勝利の形になっただけである。
世界の態勢、文明、人類の生き方、或は、これを思想というかも知れぬが、帝国主義
は、近代産業から生まれた鬼っ子であり、民主主義の動向、人道主義の人間の動きが大
勢をもっていたということであらう。
日本のこの戦争においては、世界戦略としては、準備も、その用意のしかたが、お粗
末で、充分でない。
一つの衝撃を与える効果はあるかも知れぬが、眞面目の戦争で、勝味は全く無かった。
この意味で、日本が戦争を選んだことは、亡国えの道を選んだことになり、大日本帝国
は、この比島戦で亡ぶのだと、私は思い定めていた。
私は、日本人であり、大日本帝国の陸軍将校である。
その栄光と共に、生命を失うのも、やむを得ぬ。
私の生まれた杉山家には、多くの事があり、日本の帝国主義の国家、政府に、私は
忠誠を誓い、生命を捧げる気はなかった。
しかし、私自身、この第二次大戦は、日本側も、米国側にも、不合理、矛盾をもった戦
いであり、また、人類の文明というものを考えるとき、近代文明による帝国主義によって生
まれた植民地と奴隷制度が存在する世界の歪みから起こった世界情勢の中で、新しい近
代社会国家をつくる事においても無理がある。
それは、その無理において、日本は亡ぶであらう。
それは、玉砕するに等しい。
しかし、その玉砕から、何か新しいものが生まれるであらう。
それは、悲しい事であるかも知れない。
その中において、我々軍人は、その玉砕に、運命を共にする事になるであらう。
それが、新しいものを生むものになるであらうということを期待するより外はなかった。
その新しいものとは何か?
近代産業は、ルネサンス、そして、産業革命と、古代からの帝国主義国家の主権と
いうものに対して、庶民の中から、技術革命が起こり、主権の中に、民主主義の要素を
汲み入れて来た。
それが、自由資本主義と、共産主義、社会主義を生んで、社会と政権、主権をもって
来ている。
その主権そのものは、独占的要素を持ち、権力を権威づけている。
第一次大戦までは、その主権において、日清戦争、日露戦争においても、祖父茂丸
の反対にかかわらず、日本は、帝国主義において、賠償をとり、植民地を要求して来た。
この意味で、これらの戦争は、自衛的要素がありながら、侵略的なものを含んだとい
うより、主体を持って来た。
この事において、この戦争は、アジアの独立、植民地解放を、立て前としているけれ
ども、日本政府自体は、侵略戦争を行っている。
日本の敗戦は、単に、軍事力や、技術、能力の問題のみでなく、その実体において、
敗れるか、よし、勝利となっても、朝鮮や、中国の根強い反日感情において、失敗に帰す
であらう。
日本の政府においても、国民においても、この問題を洞察する力と、人材を持ってい
ない。
この戦争そのものは、日本自体が持つもので、自らわなにかかったようなものである。
この様な中で、日本で何が出来るか?
私達は、いや私は詳細に経験して来ていたのであった。
この戦争は、或は、そのような人間の驕りに対する?火とも云うべきものであらう。
私自身は、日本人であり、大日本帝国の、軍人であることにおいて、この劫火の洗礼
をうけねばならぬし、生命を失うであらう。
しかし、人間として、何か出来るか?
一人間として、悔ひのない、充分な働きをして、死にたい。
そのためには、瞬時と雖も、自らの最善を尽くしていることで、生死は、運命に委ねる
ことにしていた。
このことが、江山六夫中佐との残留の問題における決意を述べた、背影があったわ
けであった。
レイテの戦線における日本軍の攻撃は、第六次の玉兵団の後続部隊の船団が、オ
ルモックに突入し、その後に、高千穂空挺隊が、ブラウエン、ドラグ基地に降下して、この
両基地を制圧して、全軍一斉に、従来の米軍の上陸によって、守勢になって頑張っていた。
レイテ島、守備の垣兵団を中心にして、北方、南方から攻撃に移ることになっていた。
この玉兵団の第六次オルモックの突入上陸に際して、隼隼成戦斗隊は、各戦隊の総
力をあげて、船団の掩護に当ることになっていた。
このためには、タクロバン基地及び、ブラウエン、ドラグ基地における、米軍の航空機
に対する攻撃を続け、レイテ沖周辺における米海軍の機動部隊に対する、日本海軍機の
攻撃、特攻、そして、レイテ湾に来る米軍の輸送船団に対する特別攻撃が必死になって、
行はれる事になっていた。
この状況で、不思議なことには、ハルマヘラ島のおける、米軍の陸上基地からの、長
距離爆撃機のコンソリ、デ−デットB24のネグロス島基地群に対する攻撃が、如何なる理
由か? ばったりと、中止されてしまていた。
日本軍のキ84、大東亜決戦号と称する、四式戦斗機によって、昭和十九年十月末に、
ハルマヘラからの米軍のB24爆撃機の編隊は、出撃して来る度に、キ84の攻撃を受けて、
大損害を被ったことも事実である。
恐らく、米軍は、この超重爆というべき、四発動機の重爆撃機は、現地戦斗機の編隊
との連撃や、何か特別の攻撃方法を研究工夫していると思はれた。
師団司令部より、このことを指摘して、新しい企図を有するであらうから、警戒するよう
にという、指示が来ていた。
B24は、ネグロス島南のミンダナオ島上空を通って、我々の基地群に攻撃して来るの
であるから、当然、ミンダナオ島基地群において、特別の措置をとるべきである、激撃その
他が行はれるべきと思ったが、師団司令部、第四航空軍においても、何等の措置は構じて
なかったようである。
レイテ島と、ネグロス島における米軍と日本軍の航空戦の対決は、愈、大詰めの段階
に入るべく、最高潮に達しつつあった。
昭和十九年十一月二十四日以来、飛行第三十一戦隊は、第十三飛行団長江山六夫
中佐の式する隼集成戦斗隊に入り、レイテの総攻撃に参加する事になった。
この作戦で、私達、第一線のものにとって、一つの問題点があった。
それは、熱帯地域の気象天候のことである。
日本での台風季節は、六月〜十月である。
南太平洋に発生した低気圧は、西進し、台湾の東方または、フィリピン群島の東海面か
ら西北に方向を変えて来る。
十一月からの低気圧は、六月〜十月程大きなものでないが、多数発生して、やってくる。
この低気圧の中心からの不連続線のところに、高度三千米から、一万米に近い、雲層と、
積乱雲の峰々が山脈のようになって、押し寄せて来る。
レイテ島は、私達飛行第三十一戦隊の基地フアブリカの東の方にあるので、米軍は、こ
の不連線の雲の東側にかくれて、雲の峰が、東から西えと動いて来るものの蔭に入って、レ
イテ島え入って来た。
日本軍の飛行機は、残念ながら、この雲の峰々、山脈を突破しての攻撃が出来ない。
この不連線の雲の山脈は、積乱雲であるので、雲の中は、気流が渦を巻いていて、飛
行機は、大きく動揺し、操縦が困難なのである。
この雲の山脈を突破することは、よほど熟練した操縦者でも、困難なのである。
技術上の問題が、また、別にあった。
この雲は、レイテ島、フアブリカのあるネグロス島の山脈に当って、雨を降らす。
日本の飛行機の発動機は、当時、各シリンダ−に占火する点火栓えゆく高圧電線の被
覆に、ゴムが使ってあった。
米軍のは、合成樹脂(プラスチック)であって、電気の絶縁が完全であるのに、日本軍の
電線のゴム被覆は、温度と振動とで、早く老化して、亀裂を生じ、そこに雨水、水分が進入し
て、絶縁を悪くする。
発電機や、高圧電気を分配する装置も、完全な防水、絶縁ではない。
必然的に故障が多いのみでなく、降雨にあうと、飛行機が動かなくなる。
米軍の方は、悠々と、この低気圧の影にかくれて、レイテ湾に入るころは、ネグロス島
附近は、雨になっていて、出動が出来ぬという状況が多くあった。
米軍は、気象状況や、日本空軍の技術水準を良く知っていて、巧く利用したといえるで
あらう。
レイテ島えの米軍の補給は、この天候を利用して、幾次にも、大船団が送り込まれつつ
あり、日本側も、マニラ港より、第六次の輸送船団に、日本最精鋭の玉兵団、第一師団の砲
兵部隊、後続歩兵連隊が乗船して、出発していた。
この船団掩護が、第十三飛行団、飛行第三十一戦を主体とする、隼集成戦斗戦隊に命
令された。
フアブリカ基地における、隼隼成戦斗機隊は、私の記録には、次の様に記してある。
飛行第三十一戦隊 20機
飛行第五十四戦隊 8機
飛行第二十四戦隊 5機
私がフアブリカに到着したのは、或は、十一月二十五日であったかも知れぬ。
私が飛行第三十一戦隊の主力に追いついたとき、花井甲子郎少尉、陸航士57期生、十
一月二十三日、パナイ島上空で散華していた。
清水光雄中尉、陸航士57期生は、十二月二十四日、レイテ島タクロバン上空で散華し、
その外、 長谷川敏夫伍長、橋本忠太郎伍長、竹中輝雄軍曹、高橋敏夫曹長の四名が、レ
イテ島、タクロバン上空で散華していた。
私がフアブリカに到着したとき、これから新鋭の将校、下士官の人々が、既に散華した
後であったのを記憶している。
西戦隊長に、もう少し、現地の戦況に慣らして、出すべきでなかったか?と、議論した
記憶があるが、これら新鋭の人々は、向う見ずといえば、いえるかも知れぬが、はやりに
はやって、出撃命令があると、我先きに出撃したがって、抑えることが出来ぬし、色々注意
して、一緒に敵地に攻撃に出るのであるが、どうしても、深く敵地に入って、無理な戦斗を
行って、戦死してしまうと、西戦隊長の苦悩があったのも、事実であった。
愈々レイテ総攻撃作戦は始まった。
第六次玉兵団の輸送船団の航路は、マニラ港から、南支那海を、呂宋島の東に沿うて
下り、ミンドロ島の北を通って、呂宋島の南海域に入り、巨大戦艦、武蔵の沈んだ海域を経
て、レイテ島の西から、オルモック湾内に突入する。
呂宋島の南海域の南の部分まで、呂宋島地区の陸軍部隊、海軍の零戦、ピリ、アパリ、
レガシピ−基地からの掩護を受け、それから先きは、隼集成戦斗隊及び、ネグロス島基地
の各部隊の掩護の下に進行する事になっている。
この作戦において、玉兵団の司令部の編成を見ると、私が陸軍士官学校予科を卒業
して、歩兵第十四連隊の士官候補生として隊付していたときの中隊長、丹羽五郎中佐が、
この船団の参謀として、乗船していることが判ったので、私は、一段と、この掩護作戦に、
熱心に努力した。
日本軍の特別攻撃隊の大部分は、陸士56期、57期生等が隊長で、一宇隊の栗原中
尉以下が、ミンドロ島附近にあった、積乱雲の中に突入して、行方不明になったように、こ
の低気圧の雲層、雲の山脈を越えて、米軍の基地、機動部隊、輸送船団を攻撃することは、
不可能に近い技倆であったのである。
飛行第三十一戦隊が、マバラカット基地に、特別操縦士官達や、多くの特別攻撃隊に
参加した、少年飛行兵の操縦の人々を残置して、技倆の向上を期した所以も、このことに
あった。
司令部では、また、日本の大本営の作戦参謀の人々には、このような、現実を知って
いるものは殆ど無い状況であった。
精神的な昂揚ということ、精神力でも、この不可能なことは、不可能として、認識する
教養に、素養に欠けていたという事実、それに伴う批判は、無茶苦茶ということは、正当な、
正しい事であったというより外はない。
十一月二十六日、飛行第二師団、鷲作戦命令甲第315号(しらい)
一、第六次輸送船団は十一時、オルモック湾に突入せり、
敵は、艦船十三隻をもって、十六時三十分、アルブエラより砲撃中にて、我が船団
の揚陸を防害するものと判断せらる
二、複戦部隊は、本二十八日夜、一部をもって、前攻撃艦船を求めて攻撃すべし
三、隼部隊は、明二十九日早朝、第一に、我が船団の状況を偵察すべし、
師団長 寺田済一
私の記録の十一月二十八日に次のように記してある。
本朝より、三出動、計七出動す。
レイテ最後の切札たる第六次輸送船団の上空掩護なり
第五次、二十四戦隊の廣司大尉、十七時三十分まで帰還せる際、敵P38約八機、ムス
タング若干等、我が船団を攻撃、三十一戦隊中尉、阿部にて、P38一機を撃墜、海軍0戦に
て、一機撃墜し、事なきを得たるもの、以後覚つかなきをもって、戦隊長に意見具申 三十
一戦隊四機、浜砂軍曹以下出動、十九時頃帰還、船団は、オルモックに入港せりの報に愁
眉を開けり。
本日出動可能機最低三機になるより、整備隊全員徹夜整備せしむ
現戦況を説明して、奮起せしむ、
兵達は、九月十二日の戦斗以来、不眼不休、給与の不良に伴い、夜盲症、脚気症、遂
次あり、肥満しあるも病的なり、誠に忍びざるものあり、余以下整備特攻隊として、此の地に、
一死奉公あるもののみ。と、ある。
賞 詞
隼 部隊
十一月二十八日船団掩護ヲ命セラルルヤ、折柄来ノ降雨ノタメ軟弱トナレル飛行場状況
ニモ拘ラス数次ニ亘リ特ニ所命時間ヲ過グルモ尚進ンデ夜間ニ至ル迄出動シ四戦部隊ト緊
密ニ協同シ翼部隊及海軍ト協力シ?次ノ敵襲ヲ適切ニ排除シ船団ヲシテ無事目的地ニ突入
シ得シメ任務ヲ完遂シ国軍決戦ノタメ寄与セル所極メテ大ナリ
本職深ク之ヲ賞ス
昭和十九年十一月二十八日
第二飛行師団長 寺田済一
十一月二十八日、午後五時三十分、第二十四戦隊の廣司大尉の編隊が、フアブリカに
帰還したとき、六時に日没であるが、暮明の状況が十五分から三十分続くとしても、タクロ
バン基地、または、機動部隊からのオルモックえの距離は、レイテ沖の機動部隊から僅か
二十分〜三十分、タクロバン基地からは、僅か十五分の近さである。
約一時間余の日本航空のオルモックえの船団掩護が空白になるとき、約三十一分間
でも、爆撃されることになれば、僅か数隻しかない船での上陸作戦では、日本軍の揚陸能
力が低い状況では、大損害を受ける事になる。
レイテ島えの上陸部隊は、火砲や弾薬の携行が少ないのに対して、米軍の圧倒的な
火力に対しての戦斗は無理になる。
この空白が或は、レイテの戦局を一変させるかも知れぬという恐れがあったのである。
師団司令部も、飛行団も、作戦関係者において、このような事は、問題にしていなかっ
た。
それで、敢えて、私は、隼隼成戦斗機隊の隊長江山六夫中佐及び西戦隊長に対して、
最後のもう一押しの掩護を要請したのであった。
浜砂軍曹以下、飛行第三十一戦隊から、帰路は夜間着陸になるので、夜間飛行に慣
れた人々を選び出撃させた。
私は、浜砂軍曹に、第一師団玉兵団の最後の上陸参謀である丹羽五郎中佐に対して、
手紙を書き、通信筒で、上陸地に投下して来ることを頼んだ。
浜砂軍曹の言では、オルモックの上陸地点には、米軍んの戦斗機が、数機来ていたが、
浜砂編隊がこれを追散らし、船団は無事であったということで、船団から上陸する部隊が、
地上で、大喜びして、手を振っていたので、この通信筒を投下したら、日の丸の旗を振って、
受けとった事を知らせていたという報告であった。
船団掩護という任務は、苛酷な飛行計画と、整備を要求する。
船団上には、一刻も、掩護の飛行機を外すことが出来ない。
常に、一編隊四機がいて、他は、敵の攻撃を排除しなければならぬ。
常に船団を守っていなければならぬという立場は、敵の攻撃を自由に激撃出来ない。
船団上空から他えゆくことが出来ない、制約があるからである。
整備の方からいうと、敵と交戦して、飛行機に敵弾を受けたり、損害、故障が起こっても、
船団を守る機数は、少なくする事は出来ない。
しかも、操縦者は交替で出撃するが、飛行機の方は、交替なしで、出動時間に間に合せ
て、出撃させねばならぬ。
この苛酷な出動計画で、二十八日の掩護が終了したとき、二十機からの第三十一戦隊
の飛行機は、僅か三機のみしか出動出来ぬ状況になってしまった。
玉兵団の上陸完了と共に、泉兵団は、オルモックから東南のレイテ山脈中に展開して、
愈々、レイテ島総攻撃の機が近づいて来た。
この作戦準備のため、努力しているとき、隼隼成戦斗機隊整備隊長である飛行第五十
四戦隊の蔵前大尉が転勤することになり、後任は、私が引受けることになった。
さて、各戦隊の飛行機の状況や、整備隊の状況、独立整備隊の状況を調査して、本格
的な整備計画を具体化する事になった。
飛行第三十一戦隊は、フアブリカ飛行場の西南地域、第五十四戦隊は、東北地区、第
二十四戦隊は、東南地区に展開しているので、フアブリカ基地全体を歩き廻らねばならぬ。
フアブリカ基地の西北地区には、20o機関砲陣地があったが、他の地区には、防御の
対空火器が、一つもない状況であった。
独立整備隊と相談し、折から前進して来た、花元曹長に指示して、破損した、隼戦斗機
の13o機関砲を、全部、改造して、地上の対空火器にする事にした。
今迄、米軍の飛行機の攻撃があると、整備員は、「退避」とか、「逃げろ」という言葉を
使っていたが、これを、「戦斗配置につけ」という言葉に変えた。
この様に、フアブリカ基地の対空火綱を構成しているときに、十一月三十日と思うが、突
然、輸送機(AT)二機が着陸して来た。
これは、愈々レイテ総攻撃のために、出撃する高千穂空挺隊の作戦打合せのため、隼
隼成戦斗機隊を訪問して来たのであった。
戦斗機用の基地に、輸送機二機が降りて来ると、飛行機の匿し場所が、全くない、草原
の台地である。
攻撃を受けたら、一たまりも無い。
ひやひやしながら着陸して来るのを、飛行場大隊の整備中隊の整備員が迎えて、指揮
所の前に停止せしめたとき、その操縦席から降りて来たのが、陸士で同じ中隊、区隊に居
た同期生の奥園大尉である。
思はず、や−や−と、手を握って、奇遇に喜びあったが、奥園君も、大変喜んで、
「あ−、杉山、
貴様、ここに居たのか?
それで、決った。
ここに着陸することにした。」
と、いうのである。
高千穂空挺隊の輸送機全部が、このフアブリカ基地に着陸するというのである。
高千穂空空挺とは、落下傘部隊で、レイテ島のブラウエン、ドラッグ基地群に降下して、
奇襲し、泉兵団の攻勢を助けるという作戦であった。
それで、このフアブリカ基地に十数機の輸送機が着陸するというのである。
いやはや、戦斗機でも蔭匿するのがやっとであるので、まして、輸送機のような大型機
は匿しようもない。それで私は、奥園君に、
「おい、奥園、
空挺隊の集合場所は、マナプラと、決定していたのではなかったか?
ここは、戦斗機用の飛行場で、滑走路も九百米しかないし、輸送機の匿しようもない
ではないか?」
と、申したら、奥園君が、
「いや、杉山、
出撃は、払暁か夜半になる筈である。
だから、夕方、ここに着いて、出撃するので、飛行機を匿す必要はない。
それよりも、貴様がここで、整備して呉れるので、安心して、準備が出来るから、俺の
部隊は、此処に決めた。
それが、俺達には、何よりなのだ。
杉山、頼むよ、そうさせて呉れ。」
と、いうので、私は返す言葉も無かった。
「そうか?
それなら、しかたがない。
俺も最善を尽すから、貴様も遠慮なしに、云って呉れ!」
と、手を握った。
独立整備隊、飛行場大隊整備中隊の幹部を招いて、高千穂空挺隊との整備上の打
合せを行って、万全を期した。
十一月の末、珍しく米軍のB24の編隊が二十一機で、マナプラ基地えの攻撃があった。
掩護戦斗機は、僅か五機のムスタング、P51のみであった。
マナプラ基地は、高千穂空挺隊の基地になる筈であったが、これを如何なる方法で察
知したのか?または、偶然にそうなったのか判らない。
しかし、二十一機という編隊は、相当のものであるし、タクロバン基地からの掩護戦斗機
は、僅か五機であることは、米軍も、P38その他が大変消耗して来ている状況と考えられた。
レイテの米軍の航空部隊は、第五戦斗飛行団隷下の第四十九戦斗戦隊が主力で、P38、
P40、P47、P51、第四十七師団の隷下といわれる。
第七艦隊がスリガオ海、カモテス海え進入する企図を有すると考えられていた。
レイテ島の米陸軍は、第24師団、第三十二師団、第七師団、第二十七師団、第一騎兵
師団、第十六師団の六師団である。
ここに、新しい米軍の戦斗機の情報があった。
P61戦斗機である。
この戦斗機は、夜間戦斗や、夜間襲撃に使用されて、B29の直接掩護用に使用される
という。
この戦斗機は、中国(支那)に現出して、在中国米軍戦斗機は全部用いられるという。
姿や形は、P38に酷次し、大型キャビンが後方え伸びている。空冷発動機をつけている。
電線を有して、乗員は三名であり、全長20、10Mで、全重量13屯、離陸許容は18屯
も、最大速度650q、巡航475q、航続距離1400q、増加タンク、2屯、上昇10120米、
武装、胴体下面45o×4門、200発、17o×4門、600発を搭載している。
名称をブラック、ウイド−という。
変な飛行機が出来て来て、愈々日本国土空襲が近づいたと思った。
レイテ総攻撃の準備として、次のように記している。
期日、x日=四日〜五日 (十二月)
x日前一日、夜間出動三日〜四日
西戦隊長、寺田、剣持、浜砂、岩原、中村、七機〜八機
玉、抜、泉、垣、第六十八旅団(ブラウエン)
海上艦艇協力
浜砂、中村二名は、マバラカット挺身隊長と、直掩打合
協力部隊
第十三戦隊、第二十戦隊、第三十三戦隊、第五十四戦隊、第三十一戦隊、第二十六
戦隊の六戦隊
1.直掩制空(x日)航空撃滅戦
イ.夜間出動のもの「マバラカット」に上空
(又はリパ)
ロ.戦場上空制空、マナプラ上空集合
2.拘束攻撃
複戦、襲撃、双軽の部隊
x(十)一日−制空
05、500−夜間出動全力
11、500−半数
17、500−夜間出動全力
増援部隊遮断、マナプラまで掩護
x(十)二日
制空、マナプラまで掩護
06、00
12、00
18、00
第十飛行団、第二十一飛行団「ト号」部隊
x(十)三日 戦場制空
15、45−16、40−17、55
一次、アンヘレス−スクグ−マナプラ−
ズルハンガ岬−目標(1830)
二次、03、40出発の折、05、50より、制空、マナプラまで送る。
三次が出来ぬときは、一次の要領
MC十一機、九機、十機、十一機
(500米〜1000米距離をとる)
一隊−二隊−三機−四機
上昇−280q/T −二米上昇−巡航260q−280q降下
超下比高−250M
シライは予備飛行場
41×12=492−約一ヶ大隊×3
41×20=820−約二ヶ大隊×3
この様な計画で、高千穂空挺隊は、レイテ島のブラウエン、ドラッグ、米軍基地に攻撃
することになっていた。
この攻撃と共に、レイテ島え上陸していった、日本軍は、北方から玉兵団、抜兵団、
垣兵団、泉兵団、第五十六旅団が、一斉に攻撃前進することになっていた。
この高千穂空挺団は、台湾の高砂族の人々を訓練した人々で編成した部隊である
という。
この計画で見ると、降下高度は、300米以下の低さである。
落下傘の開く、ギリギリのように思はれて、空挺隊の人々の分散と、米軍側に対応の
余地を与えないという、正に奇襲作戦である。
しかも、損害を避けて、夕刻の白薄の時機から、夜間にかけての降下時間となっている。
レイテ島における日米の決戦、日本軍の総攻撃の時機は、あと、二、三日に迫り、私は、
隼集成戦斗機隊整備隊長として、寝食を忘れていた。
昭和十九年十二月六日、午後五時三十分、高千穂空挺隊の一部隊、奥園大尉の率いる
部隊、空輸機が、フアブリカに到着した。
飛行第三十一戦隊は、この空挺隊を掩護して、呂宋島の基地から、フアブリカえの空路
を掩護し、また着陸における、フアブリカ上空の掩護を行った。
空輸機は、滑走路の東側に、ズラリと並んで、出発準備にかかり、空挺隊員は、その空
輸機から降りて、地上で休憩していた。
飛行場大隊からの夜間離陸の誘導燈と、離陸目標燈、緊急着陸設備が準備され、ブラ
ウエン、ドラッグには、夜半に降下することになっていた。
私は奥園大尉と共に、空輸機の整備を指導して、地上に休憩している空挺隊員の状況
を見た。
空挺隊員は、鉄兜の代りに、空挺隊員の、特殊な、航空帽を被り、顔を、黒く塗っていて、
体には、携行する弾薬、手留弾、機関銃といったものを、びっしりつけていて、大変な重武装
なのに驚いた。
落下傘は、前後に、二つつけている筈であったが、背中の一つのみであったように思う。
重量と、人体の幅で、空輸機には、最大限の人員を搭載するための配慮であらうか?
暗くなった、フアブリカ基地に、愈々緊張が張りつめて行った。
全員、武装は解かないまま、草原に、横になって、夫々機関銃を抱えて、仮眠している。
私が近づいてゆくと、一人の軍曹が眼をあけて、起きようとするので、私は止めて、彼
の傍にしゃがみ込み、
「大丈夫か?」
と、問うと、にっこり笑って、
「大丈夫です。
今、何時ですか?」
と、問うので、
「午後六時三十分だ」
と、答えると、ニッコリ笑って、
「有難う御座いました。」
と、云って、又眼を閉ぢた。
私は、全機を一巡して、指揮所に帰って見ると、奥園大尉達も、夕食を摂っていた。
「やあ、奥園、大変な装備なんだなあ−」
と、云ふと、
「お−、杉山、
空挺隊員はな−、一人、一人、孤立しても、戦えねばならぬので、大変な、重武装に
なるんだ。
今日は、運がよければ、米軍基地に、強行着陸することも、考えているのだが、巧く
ゆくと、良いがな−」
と、笑っていた。
飛行第三十一戦隊は、空挺隊の輸送機の出発する前に、戦場のブラウエン、ドラッ
グ基地の制空のために出発し、空挺隊は、午後十一時頃、全機、次々に出発して行って、
米軍側の攻撃も、何もなく、全て、無事であった。
空挺隊の輸送機は、降下部隊を降下させた後、夫々、呂宋島の基地に帰ってゆくこ
とになっているので、一応、私の方は、戦場の制空編隊の出発の後、これと交替して、
輸送機を掩護してゆく編隊だけが、輸送機に次いで出発して行った。
幸い、この日の天候は非常に良くて、空の星が、すぐ手に届くように、澄み切って居た。
その星の光の中に、一機、一機、輸送機は消え、私の戦隊の編隊も、消えて行った。
レイテの日本軍の前線は、この空挺隊の降下と共に、行動を起こして、ブラウエン、
ドラッグ飛行場に進出して、飛行第三十一戦隊のブラウエン基地に派遣していた、舟本准
尉以下が、ブラウエンに、オルモックより行くことになっている。
フアブリカの基地に、戦場制圧の編隊が帰って来て、異常のない事が判明し、深い沈
黙が基地全体を掩った。
成功か?これが、日本の運命が決まるときである。
午後二時近く、輸送機を掩護する編隊が帰って来た。
その報告によると、次の通りである。
輸送機の編隊は、セブ上空を経て、オルモック湾に入り、進路を南にとって、レイテ島
の南部を廻って、ブラウエン基地地域に、海岸の方から進入始め、降下して行った。
上空から状況を見ると、中には、強行着陸した輸送機もあったようである。
ブラウエン基地の中に、銃火を交える火線が、火花のように、パチ、パチと一斉に見え
始めていたが、やがて、十五分もすると、静かになり、暗黒になってしまったので、多分、
高千穂空挺隊の奇襲は成功したのであるまいかと思はれる。」
と、いう報告であった。
その報告が終るころ、一機の輸送機が、夜間であったが、緊急着陸して来た。
着陸後、機体を点検すると、余程低空で飛んだのか?
主翼に、樹の枝をひっかけて、外板に喰い込ませていた。
これは、ブラウエン基地上空で、海岸側より、進入して、空挺隊を降下せしめ、レイテ島
の背梁山脈を越えようとするとき、高度を誤って、森林の梢をかすめて、飛んだときのもの
であるという。
空挺隊の降下は、完全に成功したという。
問題は、それからである。
計画にある、第二次、第三次が如何になるかと思っていたが、これは、とりやめになっ